世捨て人のひとりごと

辛酸なめ太のブログ

左大臣右大臣

大河ドラマ「光る君へ」で頻繁に出てくる左大臣・右大臣という役職だが、実は同列ではなく左大臣の方が上位になる。
「左上右下」という言葉があるように日本の伝統礼法では「左を上位、右を下位」とする。

左上位思想は中国・儒教の「天帝は北辰に座して南面す」にある。
北極星を背にして南に向かって座る皇帝から見て太陽は東(左)から昇り、西(右)に沈む。
太陽が昇る「東」のほうが尊ばれるというわけで「左が上位」になった。

ようするに儒教文化が古代日本に影響を与えたのだが、いまもなお、さまざまなところに現れている。
国会議事堂も、左側(上位)には、もともと貴族院だった参議院、右側に衆議院が配置されている。
舞台の左側(客席から見ると右側)を「上手」、右側を「下手」と呼ぶのも、左上位に基づいたもの。

閣議の席順も「左上右下」によって定められていて、首相を中心にコの字に並び、当選回数や閣僚経験の多い順に並ぶのが通例。
前内閣では岸田首相の左隣には「ナンバー2」の衆院当選13回の麻生太郎副総理、右隣に首相と同じ9回当選の茂木敏充外相が座っていた。
現内閣では首相の左隣は高市早苗経済安保相が座り、ナンバー3の右隣には林芳正外相となっている。

一方、西洋では、日本とは逆に「右を上位、左を下位」が基本。
2国間の首脳会談の並び方や主要国首脳会議(サミット)での席位置は右上位に基づいて決められている。
オリンピックの表彰台では金メダリストが真ん中、その右側(向かって左側)に銀メダリスト、左側に銅メダリストが並ぶのも右上位に由来している。

さて現在の皇室では、「左上右下」ではない。
天皇は必ず皇后の右側(向かって左側)に立たれる。
実は明治以後の皇室は、西洋式のルールにのっとっている。
日本皇室も古代以来ずっと中国式の左上位だったが、明治維新で西洋の思想・学問を取り入れる過程で、右上位のルールに変更された。

一刀斎は背番号6

図書館は新しい本が入ると、古くなって読まれなくなった本は順次書庫にしまわれる。

検索すると書庫の蔵書も出てくるので掘り出し物が見つかることもある。

というわけで最近見つけたのが「一刀斎は背番号6」

著者の五味康祐は昭和に死去しているので知っている人は少ないだろう。


1955年、剣豪伊藤一刀斎の子孫がプロ野球に入団し、ホームランを量産するという荒唐無稽なお話。

刃筋を立てて敵の骨肉を断ち切るの剣の極意だが、ボールの芯を叩くバッティングの技術と同じだと五味先生はいう。

奈良の山奥で、一刀斎から伝わる剣術の奥義をきわめてきた若者が、初めて野球場にきて、ファンサービスのアトラクションに参加し、巨人のエース別所投手の投げた球をホームランにした。

首をひねった別所は今度はプロの意地をかけて渾身の快速球を投げたがこれも外野スタンドへ一直線。

このとんでもない事件は大騒ぎになった。


半信半疑の巨人軍は、一刀斉と入団契約し、試合に出すと、各球団エースの球をことごとくホームランにしてしまった。

ところが野球などやったことがないので守備が全くできない、それどころか、打球が飛んでくるとヒラリと身をかわす。

これではどうにもならないのでピンチヒッター専門にするのだが敬遠されて打たせてもらえない。

そんなこんなで結局退団して奈良の山奥へ帰る。

この時代の巨人軍メンバーは大友工、川上哲治、広岡達郎、与那嶺要、国松彰……等々、往年の名選手が出てくるのも楽しい。


それから年月がたって長嶋新監督となり、第一年目はまさかのセリーグ最下位。

巨人再建の切り札として一刀斎に再登場を願う。

長嶋監督は一刀斎が敬遠されないように張本、王の強打者を後ろにおいて万全の打順を組んだ。

なんとまぁ~、まるでマンガにありそうなストーリーだが、半世紀前のプロ野球を知っているものにはまことになつかしい。


五味康祐が芥川賞を受賞したのは『喪神』だが、時代小説としてはきわめて珍しい、というか、戦後ではこれ1作だけと記憶している

その後は『柳生連也斎』『柳生武芸帳』などで人気作家となった。

昭和40年代、柴田錬三郎、山田風太郎、藤沢周平、津本陽、隆慶一郎などが剣豪小説ブームを作ったが、そのさきがけとなったのが五味康祐だった。


なにしろ多芸多才の人で手相や観相学に通じており『五味手相教室』や『五味人相教室』などの著作も多く、テレビでもその博識を語っていたことをよく覚えている。

「観相学では私の寿命は58歳まで」と述べていたが、なんと1980年に58歳で死去した。

占いのたぐいは自分自身のことはわからないそうだが五味先生は見事に的中させた。

光る君へ

今年の大河ドラマの主人公は紫式部。

「源氏物語」を書いたのは1008年ころだが、小説としては世界最古だという。

西洋ではもっとも著名な古典「神曲」が書かれたのは源氏物語より300年後。

中国の「四大奇書」として名高い「水滸伝」「西遊記」「三国志演義」「金瓶梅」は400年後である。

四大奇書は民間伝説や説話が年月を経て物語になったもので、小説とは言えない。


紫式部は一条天皇の后・彰子に仕えていて、漢文学を講義するなど家庭教師のような役割を担っていた。

ある日「なにか面白いお話を書いてほしい」と頼まれた。

彰子が物語の執筆をせがんだのは、彼女にはそれだけの文才があることを宮中ではみんな知っていたからだろう。

この依頼をうけた紫式部は、琵琶湖畔石山寺に7日間滞在し物語の構想を練った。


『和泉式部日記』や『更級日記』にも描かれているが、当時の王朝貴族にとって京の都から気軽に出かけられる景勝の地として石山寺詣でが盛んであった。




「源氏物語」を執筆した場所は、丸太町通り寺町の北、紫式部の曽祖父である中納言藤原兼輔が建てた邸宅。

この地で育ち、結婚した後も住み続けて一人娘の賢子を育て一生の大半を過ごしたとされる。

紫式部日記、紫式部集など多くの作品をここで書いた。

500年後に天台圓浄宗の本山[廬山寺]がこの地に移ってきた。

平安中期に元三大師によって船岡山に創建されたが、1571年に移転してきた。

ここが紫式部の邸宅跡であり、源氏物語執筆の地であることがわかったのは昭和になってからだという。




桓武天皇が平安京を遷都したのが794年、唐の都長安をモデルとして設計された。

当時の御所は現在よりかなり西側にあり、今の地に移ったのは1331年。

平安京遷都当時の寺町通は「東京極大路」として幅32mの大通りだった。

「京極」とは「都の一番端っこ」という意味。


寺町通より東は鴨川とその河原だったが、平安時代から京の市街地は変化する。

鴨川の河原が開発され市街はどんどん東へ広がり、東山通りまでが京の市街地となった。

ようするに京の都は平安京遷都当時より、右京が衰退し、左京が発達するようになり、市街はかなり東によっていったのである。


平安京創設当時の地図だが、紫式部が源氏物語を執筆した邸は法成寺(廃寺)の北300メートル付近にあった。




千年も昔に恋愛小説を、それも女性が書くなんて、世界文学史上の奇跡といっていいだろう。

英文学者・渡部昇一教授は『日本史[女性編]』で次のように書いている。


源氏物語が広く国際的に評価が高まったのは第一次世界大戦後。

当時はワイマール文化などの独特の文化が栄えた時期で、ロンドンではケインズやヴァージニア・ウルフといった当代一流の知識人たちが集まって住んでいた。

彼らは自分たちこそが世界で一番洗練されて、現代的な感覚を持っていると自信満々だった。

当時はちょうどプルーストの「失われた時を求めて」が出たときで、これが現代文学の最高峰とされていた。

ところが源氏物語の英訳を読んだロンドンの人たちは驚愕した。

自分たちが最先端だと自負していたのに、900年も昔の日本ですでに描かれていたからである。

源氏物語に描かれている男女たちの哀切感情や心の揺れは昔も今も同じで、しかも洗練された美しい言葉で語られていることに愕然とした。

わが国の平安時代の文学水準は、近代フランス文学のもっとも洗練されたものさえをも凌駕していたことに驚く。


ギャラリー